安息日に神様のホームワーク。〜女が愛に勝利する時、敗北する時。

森茉莉先生のことを著作のテーマにもしたことがあり、生前親しく交流した作家であり翻訳家の矢川澄子さんは澁澤龍彦夫人だったことでも有名で、豊かな語学力と非常な博識に加え、その透明感あふれる文体で

「永遠の少女」

とも呼ばれています。

いくつかの作品を澁澤龍彦との関係とその破綻、をテーマにして書いておられますが、私はその中のこの文章に

「。。。えっ??」

と思いました。

「わたしの直感にくるいがなければ、女はひとりぽっちでは飛べないものなのよ。」

(『兎とよばれた女』より。)

。。。この一文をどのように感じるかで、その人が女性、女についてどのような捉えかたをしているかわかるのじゃないか、と思います。

リトマス試験紙のような強力な文です。

私の感じた

「。。。えっ??」

をどう表現したら良いのか、

かすかな、しかし抜き難い違和感、

とでも言いましょうか。

わたし=スズキの直観にくるいがなければ、この方は

男との愛において何かの敗北したのだな、と思います。

少なくとも愛において何らかの深い挫折感をもちつづけていたのだろう、と。

終わり方がどうあれ、本当に愛し本当に惚れたら憎しみや恨み、というのは

いつしか燃やされ、滅ぼし尽くされて喜びや、感謝が残ります。

そこまで敗北するのも、敗北を認めるのも、そのプロセスも、

貴重なことです。

女として、と無防備な言葉をあえて使うとしたら、

愛においての敗北、それは小説のテーマになるほどのことでもあります。

ボヴァリー夫人、アンナ・カレーニナ、皆、完膚無きまでに敗北したではないですか。

。。。尤もそれを書いたのは男の作家、それもすぐれた文学者なので、

敗北を勲章として昇華させ作品化する、というようなタフな精神と文学性を

持たなかったとしても、女性だから、当事者だから、書けなくて当然、という

話かもしれません。

しかし、ならば森茉莉には何故それが出来たのか。

自分をモデルとし卑屈さのカケラも無く傲然と愛、について書けたのは何故なのか。

愛において勝利した、からじゃ無いでしょうか。

少なくとも森茉莉にとって、その愛が敗北、や挫折、とは無縁のものだったからでしょう。

それは愛が現実的な意味において成就した、ということを意味しません。

現実ではなく精神において=霊において勝利した、のです。

とにかく表現というものは恐ろしく、隠し立てということが出来ません。

全ては顕れる。どの様に表面を装ったところで、

白日の元に晒されてしまう。

自らの少女性を保存することと、女として男を愛することは相容れない、と思います。

両方欲しいのに欲しかったのに手に入らなかった、

のだとしたらそれは愛では無く自らの

が満たされない、ということになります。

欲は年齢とともに“自然に”消え去るものでは、恐ろしいことに、無いのです。

愛、を欲、と交換する人にはやがて行き場が無くなる。

はそれじたい畏れるべきもの、

純粋な、不可侵の、神の領域に属するもので、

欲は人間に属するものです。

父親(=森鴎外)を不可侵の聖域として愛した森茉莉はそれを識っていたのじゃ無いでしょうか。

「詩人のが肉に捉えられたときの悲劇」

と言ったのはヴァージニア・ウルフだったでしょうか。

男女の愛、という肉的な現実において詩人の心が敗北したとしたら、それはこのうえもない屈辱であり、悲劇いがいのものではありません。そして肉のともなわない精神の世界で詩人が愛を全うしたとしたら、

それは勝利です。現実の勝利では無く魂の勝利です。

愛において現実の勝利を目指すものは、完膚無きまでに敗北する。フローベールもトルストイも、多分言ってることはひとつです。

それは道徳、じゃなく真実だから時を超えて読まれるし、いつ読んでも「新しい」と感じられるのでしょう。

「女はひとりぽっちじゃ飛べない」といっても、

そもそもなんで「飛ば」なきゃならないのでしょう。

女の”深く根を張る、根を張りたい”という資質を、私は誇りにさえ思ったりします。

幼稚なところ、非現実的なところが少しも無く、クリエイティブで、興味を自分の領域で掘り下げ深めていく、のは女のもっとも得意とするところです。

女には「飛ぶ」必要など無く、男の才能や上昇性の翼にのって自分も飛びたい、

と希うのであればそれは愛ではなく欲じゃ無いでしょうか。

かすかな、しかし抜き難い違和感の正体はきっと、それだったのでした。

ーー以上、「安息日に神様のホームワークをやってみた」のレポートをお届けいたしました❣️

安息日に神様のホームワーク。〜女が愛に勝利する時、敗北する時。」への1件のフィードバック

  1. 愛と欲の関係、よくわかりました。
    私が求めている愛は欲から来ているもの。でも本当に求めているのはきっと恋。
    エネルギーに満ちあふれていた少年期?の恋する気持ちに、自分の理想を追い求めている、たから欲。
    じゃあ愛と恋の関係は?
    自分なりには大人になった理性が恋の欲を支配していて、それが愛と近づけているのだと思うのですが、祥子さんの考えも聞いてみたいです❤

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